27日の午昼過ぎに、長男から「家に居る?」と、LINEではなく電話が入った。
いつものように 「居るよ、どうしたの?」

 「親父が亡くなった」・・・

2年ほど前から、父親の認知症の前触れのような行動を、時おり帰省していた長男から聞いていた。
今年に入って、被害妄想的な言動が続き、近くに住む親族の助けを得て、地域包括センターでの相談やもろもろの手続きをし、病院での認知症( レビー小体型認知症)の検査を受け、先週に長男が付き添っての通院が始まったばかりで、次回は5月1日との話を聞いていた。

包括センターの方が見守りで27日に住まいを訪れ、亡くなってたのを発見したそうで、突然の訃報に驚いて、豊橋へ向かう途中での連絡だった。

一人暮らしだったので、警察の検視が入り、連絡のある夕方まで、我が家で待機の長男。遠くの親族や包括センターで紹介された葬儀屋さんに連絡を取ってる間に、私は次男に帰省を促す連絡をした。

17年前に、一人暮らしの母が亡くなったときは、検視のため車の中で待機してる間に息子たちや弟、会社などに連絡しつつも、葬儀屋さんなどの手配は全て弟に任せていたので、流れを把握しておらず、ただ、自分用に市の斎場の資料はサイトからダウンロードしてあったので、それを長男に渡した。

夕方、警察から連絡があり、葬儀屋さんと出向いて、そのまま今後の打ち合わせをして帰宅したのが8時半ごろ。
通夜は無しの一日葬で、29日はお昼に葬儀屋さんに集まり、斎場へは午後1時、我が家への帰宅は4時ごろになると、遅い夕食のうどんをすすりながら話す長男。
思いのほか遅くなったのと、翌日も葬儀屋さんで詳細の打ち合わせがあるので、1泊して、28日の打ち合わせが終わった午後に帰っていった。

入れ替わりに次男が、予定を早めてのGW帰省。
長男から聞いた内容を話しつつ、最後に父親とあったのはいつだったのかを聞くと、長男の披露宴の時(約14年前)だと。
35年前に離婚した時、長男の親権は父親になり、離婚後は1週間ごとの週末に両親の家を行き来して兄弟で過ごしたが、次男が父親の所へ行ったのは確か小学生までだったように記憶している。
長男の方は、高校生になった2年間と、大学生以降から就職するまでの6年間は、私の家で暮らしたのと、豊橋に帰省するたび、我が家にも顔を出すことが多かったので、疎遠になることは無かったけど、次男にとっての父親の存在は薄かったのではないだろうか。

29日の11時頃に長男家族が到着し、ひと段落して次男と共に葬儀屋さんへ向かった。
午後4時前に帰宅した家族に、お茶を淹れて、しばしの談話で、豊橋市の斎条が、とてもりっぱだったと言ってた。
3匹目に旅立ったチビを斎条へ連れて行ったときにも、整った建物だと思い、私はここで直葬でもいいなぁと思った。(ただし棺に入れてもう為に葬儀屋さんも必要)
そらからまた手を入れたかもしれなくて、長時間待つ間も落ち着けるしつらいになってるのかも。

そうそう、家族が亡くなったあとの手続きが全て出来る窓口「おくやみコーナ」が、市役所にはあるという。
もろもろの手続きが一カ所で出来るのは遺族にとってありがたい。
ただし、厚生年金だと社会保険事務所になり、こちらは込み合うので予約を入れるとのこと。
息子たちの父親の住まいはゴミ屋敷に近い状態で、その整理も業者に任せるそうで、後始末にしばらくかかるのだろう。

人は病気などで見送る心の準備が出来るとは限らないことを知ったのは、息子たちだけではない。
次に送られるのは私だけど、勝手にあと10年(それで浴室給湯器の工事となった)、あわよくば15年(チャイが長生きしたとして)と願ってはいても、こればかりは思い通りにならないだろう。
二人が経験したことを私の見送りで生かしてもらえば。そのための終活メモを、きちんと記しておかなくちゃと心した。