TALK-TALK タイトル

手編みのカーディガン

冬はスキー三昧の青春時代、今夜スキーに発つという日の午後のこと、仕事中の私に電話が入りました。 母が怪我をしたから、すぐ病院へ来るようにと。
病院は勤め先のすぐ隣。駆けつけると、「機械に腕を挟まれて・・・」と、母が勤めていた会社の人は、ただならぬ様子で言います。 それでも意味が飲み込めないでいる私でしたが、寝台車に乗って手術室に向う母の土色の顔を見て、やっと、ことの重大さを知ったのでした。
右肘の少し下から切断。身体障害者2級(リハビリ後3級に)。母47歳、私が19になったばかりの2月初旬のことでした。

決して平坦ではない人生を歩んできたとはいえ、母にとっては最大の転期で、苦手だった人との関りが、いっそう増し、他人の目を避けるように過した日々。 一時は周りを遮断し、神経症に陥った母の言動を、成人前の私や中学生だった弟も理解できずにいました。
親から離れて一人暮しをしていた私は、ただただ自分の世界が欲しかっただけで、真の自立とはほど遠いものでしたが、 神経症の母に代って、安住できる環境探しに奔走したことが、私たち子供の本当の意味での自立心を促すことになりました。

環境が変って、やっと落着きを取り戻した母は、持前の芯の強さをバネに、利き手ではない左手での暮しを取り戻しました。 そんな母が夢中になったのが編物、それも左手と足を使ってできる鉤針編みでした。 自分の体に合わせたせーターやカーディガウン、短くなった腕を包むカバーなど、ゆっくり丁寧に編んでいました。

昨年2月、母が亡くなってすぐ後、母が借りていた住宅を速やかに明け渡さなければならず、悲しみの最中にも弟と息子や甥たちとで荷物の整理をしました。
そのほとんどは処分せざるを得なかったのですが、箪笥から丹念に編んだカーディガウンが出てきた時、捨てるに忍びなく、形見として手元に残しました。
残り毛糸の配色を考えながら、編んでは解き、解いては編んだ母の手仕事を見つめながら、もっともっと母娘の会話をしておけば良かったと、今になって思うのでした。

早いもので、あれからもう一年が過ぎ、昨日、母の一周忌を済ませました。(2005.2.27)

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